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岡山地方裁判所 昭和43年(わ)108号 判決 1968年6月25日

被告人 幡司敏一

主文

被告人幡司照子を懲役四月に処する。

この裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

右猶予の期間中同被告人を保護観察に付する。

「被告人幡司敏一は無罪。」

理由

(罪となるべき事実)

被告人幡司照子は、昭和四二年一一月一九日午前零時頃、岡山市駅前町二丁目二番一八号中国精油岡山駅前給油所前附近路上において、同所を通行中の森谷勇に対し、売春をする目的で「遊んでいかれえ、三、〇〇〇円でいいわ」などと申し向け、もつて公衆の目にふれるような方法で、同人を売春の相手方となるように勧誘したものである。

(証拠の標目)<省略>

(執行猶予の前科)

被告人幡司照子は、昭和四二年六月一五日、広島地方裁判所において、売春防止法違反により懲役四月に処せられ、三年間保護観察付執行猶予に処せられているもので、この事実は同被告人の当公判廷での供述および前科照会に対する回答書によつて認める。

(法令の適用)

被告人幡司照子の判示所為は売春防止法五条一号に該当するところ、所定刑中懲役刑を選択し、その刑期範囲内で同被告人を懲役四月に処し、同法一六条、刑法二五条二項を適用してこの裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予し、同条の二第一項後段により右猶予の期間中被告人を保護観察に付する。なお、訴訟費用は刑訴法一八一条一項但書に従つて同被告人に負担させない。

(無罪の理由―被告人幡司敏一に対する公務執行妨害の訴因に対する判断)

一、公訴事実の要旨

被告人幡司敏一は、昭和四二年一一月一九日午前零時頃、岡山市駅前町二丁目二番一八号中国精油岡山駅前給油所前附近路上において、岡山西警察署勤務巡査森谷勇が売春防止法違反被疑者として幡司照子に対し最寄りの派出所まで任意同行に応じるよう説得中、同女をして検挙を免れさせようとして、同女と森谷巡査との間に割込み、同巡査の手を押え、その胸倉を掴むなどの暴行を加えて右幡司照子を逃走させ、もつて同巡査の公務の執行を妨害したものである。

二、当裁判所の判断

(一)  本件当時の状況

被告人両名の当公判廷での供述ならびに検察官および司法警察職員に対する各供述調書、証人森谷勇の当公判廷での供述を綜合すると、被告人両名は夫婦であつて、医療費などに窮した結果、被告人幡司照子が岡山市駅前町附近で売春をして金員を入手しようと考え、昭和四二年一一月一八日、被告人幡司敏一の運転する乗用車に被告人幡司照子および古田(又は紫藤)英子が同乗して来岡し、夕食をとつて後、翌一九日午前零時頃に前記中国精油岡山駅前給油所附近での再会を約したうえ、被告人幡司照子および右英子の両名が同市駅前町附近で下車して、同所で佇立又は徘徊をして客待ちをし、被告人幡司敏一は同市内のキヤバレーに飲酒に赴いた。

一方、森谷勇(当四六年)は、岡山西警察署防犯課勤務の巡査で、本件当日岡山駅前地区での売春事犯取締のため、一人で通勤用五五CCの原付自転車に乗用し、茶色のコートを着用し、戦闘帽の上に白のヘルメツトを被つた私服姿で駅前地区を警邏していた。

ところで、本件当日の一九日午前零時頃、前記森谷巡査が前記給油所南東角の十字路にさしかかつた際、同所で客待ち中の被告人幡司照子と出会い、前記認定のように同女からの売春の勧誘をうけたので、同女の利用するホテルを確認しようとして、同女の勧誘に応じる風を装い、同女と共に附近の大通りにある万町ホテル玄関にまで至つたが、他に一名の売春婦らしいのがいたため、駅前派出所より警官の応援を求めて、右両名を同時に検挙しようと考え、被告人幡司照子をその場で売春防止法違反の現行犯として逮捕することなく、同女には所持金がすくないので行けない旨断つて、同旅館を出て一旦は岡山駅前派出所へ赴くべく大通りへ出たが、他の一名の売春婦がいるかどうかを再確認するため、約一五分位の後、再び前記給油所附近に行つてみたところ、被告人幡司照子の姿のみしか認められなかつたので、他の警官の応援を求めることを断念し、同被告人に近寄り、警察の者である旨を名乗つたうえ派出所までの同行を求めた。これを聞いた被告人幡司照子は、過去に売春事犯で検挙されたときとは異つて、先程勧誘した際には検挙しないで、今更になつて同行を求める森谷巡査の態度に不審を抱き、偽警官ではなかろうかとも考えて、その場を逃げ出そうとしたが、同巡査に右手を掴まれ「知らん、知らん、行かん」と云つて同行を拒否しているのに、一五、六米位引つ張つて行かれたので、附近の路上に駐車していた小型貨物自動車の車体の鉄棒に片手でしがみついて引つ張られまいと抵抗した。そこで、森谷巡査は、なおも「こい」と云つて同行を求めたが、「行かん」と云つて容易に応じそうにないので、鉄棒を握つている同被告人の手の指をはずしにかかつたところ、偶々、前記約束の時間になつていたため被告人幡司敏一が乗用車で現場に到着した。同被告人は、昭和四二年八月末頃、売春事犯の疑で森谷巡査他三名から約一時間にわたつて質問を受けたことがあつたため、同巡査とは初対面ではなかつたけれども、以来すでに三ケ月を経過し、又深夜の暗がりの場所で服装も異つていたため、同巡査であることを知らないで、「どうしたんなら」と云つて両名の間に割つて入り、同巡査の着衣の胸元をつかんだり押したりなどして手を離させようとしたので、同巡査において、警察官であるから公務執行妨害になる旨をくり返し告げたが、同被告人は「警察官とか何とか言うてもわかりやせん」といいながら、なおも手を離させようとした末、警察手帳の呈示を求めたので、同巡査が取られてはならないとこれを一瞥させたところ、一応は納得して手を引いたが、なおも「警察や云うてもわかるもんか」といいながら、派出所への同行にすすんで応じたため、同巡査と共に岡山駅前派出所に赴いて取り調べを受けるに至つた、との事実を認めることができる。

(二)  森谷巡査の職務執行の適法性について

検察官は前記のとおり、本件当時森谷巡査は売春防止法違反被疑者として幡司照子に対し最寄りの派出所まで任意同行に応じるよう説得中であつたとして主張している。しかして、被告人幡司照子が売春防止法五条一号に違反する所為をしていたことは、前記認定のとおりであり、本件時刻、場所その他の条件に照すと、森谷巡査において、警察官職務執行法二条二項により、同女に対し附近の派出所まで同行を求めることの許されることはもとよりである。しかしながら、右同行に際しては、刑事訴訟に関する法律の規定によらない限り、あくまでも身柄の拘束又は意に反する連行にわたる行為のあつてはならないことは、同条三項の規定に照し明白であるところ、本件の場合は前記認定のとおり、森谷巡査において、同行を拒む被告人幡司照子に対し警察手帳を示すなどして同女を納得させることもなく、その右手を掴んで一五、六米も引つ張つて行き、自動車の車体の鉄棒を掴んで連行されまいとする同女を引つ張り、かなわぬとみるや同女の手指をほぐして無理矢理連行しようとしていたものであつて、同条二項にいわゆる任意同行の範囲を超えたものといわざるをえない。もつとも、検察官は、本件の場合には現行犯としてでも逮捕できたのであるから、右の程度の強制はいわゆる逮捕的行為として社会通念に照して許されると主張している。なるほど、被告人幡司照子の本件売春防止法五条一項違反事実については、森谷巡査においてこれを現認しているところであり、本件同行を求めるまでの間一五分位しか時間を経過していないのではあるが、現行犯人とは現に罪を行い、又は現に罪を行い終つた者か或いは一定の要件に該る者が罪を行い終つてから間がないと明らかに認められるときであるから、当時すでに現行犯人としては逮捕しえなかつたといわなければならない。又、警察官職務執行法二条二項の任意同行に際しては、時と場合とによつて、或る程度の強制も社会通念上任意の同行として許される場合もあり得るであろうが、本件の場合は相手が女性であり、さして緊迫した事態も認められなかつたのであるから、通常の説得の手段の残されている余地は多分に存したと認められるので、やむを得ずしてなされた正当な行為とも解しがたい。かくして、本件の場合森谷巡査のとつた行為は警察官の職務執行として不適法かつ違法のものと断ぜざるをえない。

(三)  被告人幡司敏一の行為について

前記認定のとおり、被告人幡司敏一は、その妻照子が森谷巡査に手を掴まれて連行されようとしているのを目撃し、それをさせまいとして、手を離させるべく両名の間に割つて入り、森谷巡査の胸元を掴んで押すなどの暴行をしている事実が認められる。しかしながら、前記のとおり、森谷巡査のとつた行為は違法のものであるから、これに対し暴行、脅迫を加えたとしても、公務執行妨害罪の成立しないことはいうまでもない。又、同被告人の検察官および司法警察職員に対する供述調書には、当初はともかく、森谷巡査より警察官である旨を告げられた後は、同人を警察官であると明白に認識し、妻を逮捕させずに逃がそうとして暴行した旨の記載があるが、同被告人が警察手帳の呈示を要求し、偽警官であろうとの問答をなし、又、派出所への同行に進んで応じていること、森谷巡査の当時の服装などよりして、当初はもとより、森谷巡査に警察官である旨を告げられた後も、警察官である旨を明白に疑もなく認識していたものと解するには疑問の存するところであり、この点からも公務執行妨害罪の成立には疑問がある。

ところで、前記のとおり、森谷巡査の当時の職務執行は、不適法かつ違法のものであるから、これを排除するためなされた相当な行為はいわゆる正当防衛行為として許されるといわなければならない。被告人幡司敏一は、森谷巡査が警察官であることを明白に認識していたわけではなく、又もとよりその職務の執行が違法であることを知つて本件所為に及んだのではないけれども、ともかくも、深夜、約束の時間頃に本件現場に帰来したところ、自己の妻が見知らぬ男に手を掴まれて連行されようとし、妻はそれをされまいとして自動車の車体の鉄棒にしがみついているのを目撃し、その男から妻を逃がそうとして前示のような程度の比較的軽い暴行を加えたものであるから、妻に対する現在の侵害から妻を防衛するため、必要かつ相当な程度の所為に及んだに過ぎないと認められる。よつて、同被告人の所為は正当防衛行為として、刑法三六条一項により犯罪を構成しないといわざるをえない。

(四)  結論

以上に説明のとおり、本件に際し森谷巡査のとつた職務執行は違法であり、これに対する被告人幡司敏一の所為は正当防衛行為として罪とならないので、同被告人に対しては刑訴法三三六条に従つて無罪の云渡をする。よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官 岡次郎)

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